大島高校(奄美)

私の母の兄は、大島高校の卒業生。


大島高校が、甲子園出場 

応援も凄かったねo(*^-^*)o


(甲子園出場記念のストラップも届きました)





014/03/14 に公開

21世紀枠で第86回選抜高校野球大会の出場が決定した大島高校野球部を応援するため­、奄美市内の各種団体で大会の入場曲である「恋するフォーチュンクッキー」を踊りまし­た。




奄美☆大島高校 大応援団=最優秀賞=2014"4.3 受賞

2014/04/02 に公開

・さすが!

奄美☆大島高校の吹奏楽部は甲子園で奄美の民謡=「稲すり節」

を数多く演奏して全国にその名を広めました。

約6000人の応援・声援でアルプススタンドはシマ一色となりました。

◇ 4月3日

  大島高校は大応援団で2014センバツ応援の部で「最優秀賞」を受賞しました。



 

尼崎で暮らす奄美出身者は4万人を超える。

*高校野球では沖縄を応援するね

 尼崎では、大庄に沖永良部島と喜界島出身者、杭瀬には徳之島や名瀬(奄美市)、東難波は瀬戸内町…とシマごとに集住し支え合ってきました。

沖縄出身者に親近感を持っているのも、米軍の占領下にあった歴史を共有し、故郷を離れてこの街に暮らす仲間意識(④)や、「那覇世」の記憶がDNAに刻み込まれているからかもしれません。

南部再生 第36号 - シマッチュの言葉から奄美の歴史を読み解く

奄美群島ってどんなところ? 取材を通して出会った人たちの言葉からその歴史を探ってみました。 参考資料:『奄美の100年』(郷土出版社) 現在は鹿児島県に位置する「奄美」ですが、その歴史を振り返ってみましょう。縄文から弥生時代の古代を「奄美世(あまんゆ)」、平安・鎌倉時代は各地を按司(あじ)と名乗る豪族が支配した「按司世(あじゆ)」と呼ぶなど、時代区分の名称もまた独特です。室町時代には琉球王朝の支配下となり「那覇世(なはんゆ)」として琉球文化の影響を強く受けます。 1609年には薩摩藩主・島津家久が琉球へと侵攻するための「道之島」と呼ばれ、「大和世(やまとゆ)」が訪れます。明治維新までの260年間は薩摩藩が悪化する財政をさとうきび栽培で補おうと、激しい搾取が続きました。 シマグチと呼ばれる方言が集落ごとに異なるのは、監視を逃れてシマッチュ同士が会話をするための手段(②)だったといわれます。泥染めによる奄美特産「大島紬」についても、藩役人から反物をとられないよう土の中に隠したことがルーツだという説さえあります。 明治時代に入ってもさとうきびは基幹産業として奨励されます。1920年代には黒糖価格の暴落や激しい台風に見舞われ、奄美経済は大きな打撃を受けます。この頃から職を求めて阪神地域や関東の工業地帯へと出て行くようになりました。 米軍の統治下にあった戦後(アメリカ世)は祖国復帰運動の末、1953年に悲願の日本復帰を果たします。政府から特別に製造を認められた黒糖焼酎の隆盛(③)や大島紬が本土でも高く評価される一方で、高度経済成長期には集団就職で多くの人々が阪神地域へと移り住みました。 尼崎では、大庄に沖永良部島と喜界島出身者、杭瀬には徳之島や名瀬(奄美市)、東難波は瀬戸内町…とシマごとに集住し支え合ってきました。沖縄出身者に親近感を持っているのも、米軍の占領下にあった歴史を共有し、故郷を離れてこの街に暮らす仲間意識(④)や、「那覇世」の記憶がDNAに刻み込まれているからかもしれません。関西に住む奄美人事情について郷友会の会長を歴任してきた得本嘉三さんに話を聞いた。 関西奄美会という組織が代表的ですが、シマ(集落)や出身校、共通の趣味など大小あわせて200近い郷友会が関西にはあります。関西に住む奄美出身者は2世や3世もあわせると約35万人といわれ、中でも尼崎は4万人が暮らす最

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